映日堂

ままならない日々のこと

人間は慣れる生き物だけど、"当たり前"への感謝は忘れたくない

昨年末、わたしの好きなアーティストが10数年ぶりに活動を再開した。

休止期間が長かったこともあり、彼らがまたメンバー全員揃ってわたしたちの前に現れてくれたという事実に幸せを噛み締める毎日。

ある日、彼らの、ある音楽番組への出演が発表された。そこでは新曲と代表曲を披露するらしい。テレビでパフォーマンスが観られることがうれしくて、放送日を心待ちにしていた。

そんな折、某SNSでそのアーティストのファンアカウントの投稿がタイムラインに流れてきた。その方の発言はこのようなものだった。

「あの曲の復帰後初披露はファンの前で、じゃないんだ」

要するに、代表曲は特別な曲だから、テレビではやらずにライブに来てくれたファンのために初めてを取っておくべきだという意見らしい。

わたしは仰天した。そんな発想が、自分の中には微塵も存在しなかったから。

何とその後も、この方と同じ考えを持った方のポストをいくつか見かけた。そんな考え方もあるんだなあ、と出演をただただ単純に喜んでいたわたしは複雑な気持ちになった。 

うろ覚えだが、こんな話を聞いたことがある。

災害で避難所に身を寄せる人々が、最初は食事がもらえるだけでありがたいと感謝の言葉を口にする。
しかし時間が経つにつれて、「冷たい食事はイヤだ」などの不満を漏らすようになるという。

つまり人間は、どんな状況でも慣れてしまうのだ。この話で言う食事の供給のように、一度当たり前になったことに対して感謝をし続けるというのは相当難しいことなんだろうと想像できる。

きっと、活動再開した彼らの存在も、徐々に当たり前に戻っていくんだと思う。音楽シーンに現役として彼らの名前があることへの感動も、いつか薄れていくのかもしれない。

でも、だからこそわたしは、彼らが活動してくれていることを「当たり前」にしたくない。

休止を経たからこそ、現在の彼らがわたしたちの前に姿を見せてくれているという事実はそれだけでありがたいことだと痛感しているから。

ていうかそもそも、さまざまな事情でライブに行けないファンだっているわけで。チケットが取れないだけでなく、各々の都合もある。何を隠そう、わたしもその1人だ。

わたしは、テレビ番組で不特定多数に向けて曲を披露するということは、ライブに足を運べないファンも大事にしてくれていると感じられる素敵な選択だと感じている。

彼らの活動をリアルタイムで追えることに慣れていったとしても、わたしはその「当たり前」に感謝をし続けるんだと決意を固くしたのだった。