映日堂

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内容より先に書きたい欲がある

ここ1週間ほど、文章を書きたいという欲求がとても強くあるものの、書く内容を思いつけないでいた。書きたいのに書けないというのはつらい。「これを書きたい」と思う事柄が先にあってから書きたさが出る方が自然な流れな気もするし。まあでも今の状態をどうしようもないので、とりあえず思いつくままに文章を書いてみることにする。ここには特に内容らしい内容はないし、本当にただ書いているだけだ。

まず、「書きたい内容がない」という状況を打破したい。経験上、書き続けていれば書きたいことが枯渇することはないのだが、こうして一度完全に途切れてしまうと再開するのはけっこう難しい。こういうときは、自分の頭の中以外の力を借りるのが良さそうだ。

まず、日記を書く。これは実際にあったことが主軸となるので絶対に書ける。さらに、その体験から自分が感じたことや考えたことにも発展させられるのでリハビリに適している気がする。もう一つ、お題を用意して書くのも有効そうだ。例えばはてなブログでは週替わりでお題があり、そういうとっかかりがあれば書く内容は考えやすい。はてな以外にもお題を用意するツールはあるので、なんならお題だけで書き続けることも可能だと思う。

そして、わたしにとってこれも効きそうだということがある。早起きだ。家族より早く起きて、まだ薄暗い静かな時間に書くことに専念する。日中は「書きたいな」と思っても他のいろいろなことに気を取られて取り組めないことが多い。早朝の1人時間に文章を書くと決めると、書くことがないなと思っていても意外と筆が進む。まさに今がそういう状態で、5時に起きてこうしてキーボードを叩いている。

ここまで「書きたいことがない」ことについて書いてきて、わたしの書きたい欲は少し満たされ始めた。本当に書ければなんでもいいらしい。そりゃ欲を言えば、ブログに載せられるような文章を書きたいし、おもしろくて人にたくさん読まれる文章を書きたい。でも、わたしにとって書くことは心の健康を保つ行為という側面もある。排出しないと苦しくなってしまう。だからこれは自分のための文章で、いくら内容がなかろうがおもしろみがなかろうが、書く意味は確かにあるのだ。

今回のようにわたしはよく「書けない」と言う。でもそれはあくまで当社比であって、そういうときでも一般的に見れば書いている方らしい。わたしが書けないと言っているときは、ブログのようなまとまったボリュームのある文章のことをさす。でも実は、スマホメモにちょっとしたメモを残すことはほとんど毎日やっている。日によってその量はまちまちだが、それも書いていることに変わりはない。

そう思うようになったのは、夫に指摘されてからだ。わたしが「書きたいのに書けない……」とつぶやくと、夫は「書いてるじゃん」と言う。スマホやノートにちょこちょこと書き込んでるじゃん、ということらしい。わたしはメモなんて書いてるうちに入らないと思っていたし、そう指摘されてからもしばらくはその考えは変わらなかった。メモなんて断片的な言葉でしかないし、文章の形をしていることもあるけれどそれは加工前の状態で、自分がわかればいいという書き方をしている。それになにより、これくらいは誰でもやっているだろうという気持ちが強かった。

しかし、じゃあどこからが「書く」という行為なのかと考えると、意外とその境目は曖昧なのではないかとあるとき思いはじめた。わざわざハードルをあげて「こんなのは書くことに入らない」なんて言ってても得しないな、とも。だからちょっと開き直って、スマホのメモアプリにぽちぽちとちょっとしたメモを残すことも「書く」行為として認めることにした。
先述したが、わたしにとって書くことは心身のバランスを保つための大事な行為だ。食べるだけでは苦しくなるので、排出することが絶対に必要なのだ。だから書けないときは焦るのだけど、メモ程度のちょっとした文章でも書くことに意味があると思えるようになってからは少し気が楽になった。

ただ1つだけ問題があるとするなら、どうしても楽な方に流れてしまうのでまとまった文章を書くことが減ってしまったころだろう。わたしは自分の文章をブログに残したいと思っているし、その方が後から読み返して楽しめる(自分自身が)。メモは書くことのハードルを下げる上で有効だけれど、その次のステップとしてこうしてある程度の分量の文章を書くことも気軽にできるようになりたいものだ。

 

ここまで1,834字。書きたいという欲求を満たすためだけの文章を書いていたら、いつものブログの倍近いボリュームになってしまった。解せぬ。